赤井さんの唇が何度も押し当てられる。角度を変えて、何度も。愛を伝えるかのように優しく啄まれていく。触れ合う箇所がじんわりと熱を帯びて、このまま蕩けてしまいそうだ。赤井さんの吐息が、時折、口元に当たってドキドキする。徐々に深められていく口付けに身体が自然と後退していた。
「……っ、ん、」
腰に片腕が回される。逃がさないとする意思がひしひしと伝わってくる。コツンと、背中が冷蔵庫に当たった。もう片方の手は優しく頬を包み込んでくれているのに、指先でしっかりと後頭部を押さえられているから顔を動かせない。息が、持たない。必死に顎を上げれば、さらに口を塞がれた。
「んっ……!」
待って、こんなの聞いてない。堪らず赤井さんの両肩を押して、なんとかストップを掛ける。今、止めていなかったら危なかった。ああ、私、赤井さんと……。
「そんな顔をするんだな」
「……っ、へ?!」
顔は焼けるように熱いし、心臓は今もバクバクと言っている。目は潤んで瞬きせずにはいられないし、声を失ったように何も言えないのに。
「あ、っ赤井さんも、ですよ、っ!」
「……ん?」
「そんな顔、するなんて」
動揺を隠すために強気に出たはずが徐々にか細くなっていく自分の声。知らなかったのは顔だけじゃない。あんな、求めるようなキスをすることも、逃がさないように腕を回すのも全部。
「そうか、自分じゃ見えないから分からんな」
でも返ってきた答えはこれだ。赤井さんは愛おしいものを見つめるように目を細めると、指の甲で私の前髪を払っている。これは策でも何でもなく、ありのままなのだろう。私は静かに口を閉じた。
「名前、」
ああ、またあの甘い声だ。赤井さんの顔が近づいてくる。
「何故逃げる?」
「っ、だって……そのっ、まだ心の準備が」
「……何の準備が必要だと?」
「い、いろいろですよ!私、はまだ、そのっ……赤井さん、が、っ」
さっきのキスは勢いがあった。何も考えられなくて、蓋をしていた気持ちが一気に溢れていたから。けれど改めて冷静になると、ちょっと待て、だ。だって、ああ、私は赤井さんと。あの、赤井さんと、あんな、キスを。
「そうか、」
「……っ、え?」
処理し切れていない現実に脳内はパニック状態。そんな私を赤井さんは微笑ましげに見つめている。何かを悟ったかのような瞳だ。
「な、なん、ですかっ」
意地になって強気に出るけれど、当然赤井さんには効かない。相変わらず柔らかな視線向けられたまま頬を撫でられた。
「なに……こちらの話だ」
「狡い、そういうの狡いです、ちゃんと言ってください」
仕事中でさえも、私だけ教えられていない内容があると内心凹んでいるのに。赤井さんの続きをじっと待っていると、彼はまたふっと息を漏らす。そして普段通りに、何もおかしくはない当たり前のことを言うかのように口を開いた。
「君が愛おしいということだよ」
その瞬間、雷のような衝撃が身体中を駆け巡る。ああ、この人には勝てない。こんなに真っ直ぐで、こんなにも大きな愛を見せられて言葉にならない。赤井さんに愛されているという事実を、受け止めるので精一杯だ。
「ぁ……」
赤井さんは、立ち尽くしていた私の頬に軽いキスを落とす。ハッとした時には手を引かれていた。
「座って話さないか?こんなところで立ち話もなんだ」
彼は肩を竦めながら周囲に目をやる。コンロには蓋の空いたシチューの鍋。キッチンカウンターには乱雑にパンの紙袋やなんやらが置いてあって、とてもおしゃれな空間とは言えない。場所なんて気にしないのだけど、私は頷いて手を引かれるままソファーの方へ移動していった。君は座っていてくれと言われて、赤井さんがお茶の準備をしている間一人で待っている時間が一番緊張した。何か話しかけられたけれど、ほとんど上の空だった。
「っ、あ、ありがとうございます!」
「もう暫く置いたほうが良いらしい。ハーブティー、自分では選ばないから楽しみだ」
「えっ、と……炎症を抑える働き?が、あるとかないとか」
「わざわざ選んでくれたんだな、嬉しいよ」
改まって言われると気恥ずかしい。返事の代わりに笑っていると赤井さんが隣に腰掛ける。私より一回りも二回りも体格が良いから、当然ソファーは深く沈んだ。にしても距離が近い。腿や腰回りの触れ合っている箇所が一気に熱く感じた。こんな風に座ることって今まで無かったから、変な感じだ。
「あ、っ……」
膝の上に重ねていた手に、赤井さんの手が置かれる。すっかり覆い隠されてしまった。やっぱり手が大きい。そっと手を握られて胸の鼓動が一気に煩くなる。顔を上げれば、赤井さんが近づいていた。
ずっと、ほぼ毎日顔を合わせていた仲なのに。何も考えずに笑い合っていたのに。もう、以前の赤井さんが思い出せない。私の反応を伺うような視線を感じて、異常なほど瞬きをしてしまった。見るべき場所を決め兼ねていると彼がふっと笑う。
「何もしないさ」
まだな、と、囁かれた声に肩が大きく跳ねる。一体私は、今の赤井さんの目にどう映っているのだろう。きっと分かりやすいくらいに顔が赤いのかもしれない。それを聞くことも叶わなわず、キスをする距離になって私は反射的に目を瞑る。頬に一度、そしてさっきよりも慎重に唇が重ねられた。
「っ……ん、」
それは身構えていたよりずっと短い触れ合い。すぐに離れていく唇が少し寂しい。
「……頂こうか」
その声が身体に響く。至近距離で、しかも熱に浮かされた目をしながら、そっと離れていく身体が憎い。まるでお預けをされているような。
「あの、っ!」
「ん?」
「私……っ、耐えられそうにないです」
ティーパックを持ち上げる手がピタリと止まっている。赤井さんはそれを静かに横へ置くと、改まったように背を起した。
「耐えられそうにない?」
「こんなに……ドキドキしてる」
正直な思いだった。自分でも理解できていないことだった。これからどう赤井さんと話したら良いか分からないし、それにこんなに色々されているけれど自分が返せている気がしない。返せる気もしない。恋人としての、赤井さんとの接し方がまるでわからない。
「……待ってくれ、それは」
「赤井さんは?赤井さんは変な感じしないんですか?私ですよ?」
思いの外、勢いよく詰めてしまった。赤井さんが着ているニットの下、鍛え抜かれた筋肉のあまりの質量に少し手に入れる力を抜く。赤井さんは驚いたように目を丸くしていたけれど、すぐに困ったような目になった。そして、まるで膝に乗ってくる猫を撫でるかのように髪を梳いてくれる。
「本来であればあのままベッドへ行きたかったよ」
それは子供に言い聞かせるような優しい口調。でも内容は、考えていたよりもずっと上の。
「だが生憎この傷だ。まともな動きはできないだろう」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!……っ、え?!」
「自然なことだ。君を愛したいと心から思っているから」
しばらく私たちは見つめ合っていた。赤井さんはさも当然といった表情で。私は文字通り口を開けたまま。それも数秒。先に動いたのは赤井さんだった。私がパンク中だと判断したのだろう。ハーブティーへと手を伸ばし、一口目を味わおうとしている。
「ちょっと……びっくり、して」
「ああ、これほど固まってしまうとは思わなかったよ」
「……だって、あまりにも急で、」
ずっとふわふわとした心地だった。浮き足立っている感じがして、自分が自分じゃないみたい。カチャン、と音を立ててカップとソーサーがテーブル上に置かれる。不安になって赤井さんを見上げていると、指の甲で頬を撫でてくれた。意図せず耳の辺りに触れて少しゾクっとする。
「なあ名前。今日は泊まっていかないか?」
「……っ、え?」
「俺はどうやら、かなり浮かれているようなんだ。昼を食べるだけで帰したくない」
「あのっ……さっきの話、」
「ああ、聞いたよ。耐えられないのだろう?ならば尚更帰せない。落ち着くまでここに居たらいい」
「ご、強引……っ」
「既に互いの気持ちを知り得ているんだ。俺はもう、多少無理に引き止めても良い存在だろう?」
自信に満ちた言葉に何も言い返せない。でもどこか、スッと腑に落ちる感覚。そっ、か。いつもと違うと思ったのは、こういうことだったのだ。少しずつ、変わった距離感を理解し始めている。まだ慣れないけど、でもずっと胸の奥に温かい気持ちが流れたまま。
「でも、今日は何も持ってきていなくて、」
「ドラッグストアはすぐ下だ、コンビニも目と鼻の先にある」
「……便利、ですねっ」
「ああ、助かっているよ。後は何が必要だ?」
そう言って私を見つめる赤井さんは、穏やかに口角を上げている。ああ、もう負けだ。きっと私が内心浮かれているのもバレている。
「赤井さん」
「……ん?」
「あと、赤井さんが要ります」
最後に思い切ってそう言ってみると彼は一瞬息を詰めた。そうして息を漏らすように笑っては、視線を逸らしている。意外にもこの返事は効いたみたいだ。それ以上言ってくれるな、という目を向けられた。
「これだから、君にはいつも驚かされる」
参ったよと赤井さんは肩を竦めた。本当にドキリとしてくれたみたいだ。彼は私の頬にキスを落とすと、話を断ち切るように立ち上がった。
「昼にしないか?腹が減った」
ここで話は一旦おしまい。それが、今は一番いいのかもしれない。
「……っ、楽しみです赤井さんのシチュー!」
そうして二人で、キッチンへと向かった。